まずこの文章を読んでくださっているあなたに敬意を表したいと思います。安楽死や尊厳死について考えることは辛く避けたい話題です。私自身、死を考えると暗く、どこか不吉で嫌な気持ちになります。あなたにとってもこの記事を読むこと自体、ほんとは辛いとのはずです。それでも「大切なことだ」と思いこうして向き合ってくださっている。その姿勢がとても価値のあることだと感じています。
尊厳死に関する議論は、なぜ進まないのか?
「安楽死の承認について自分自身の場合は“認める”が80%であった」という調査があります。しかし現実はどうでしょうか?80%の人が望みながら議論が進んでいかない背景にどのような問題があるのでしょうか?またその解決策はあるのでしょうか?
心理的拒否という単純な答え

「死を直視させられて辛いから」
「法整備の遅れ」「判断基準の問題」「倫理的懸念」「医療現場の現実」…。一般に語られる課題は重要です。しかし今、私の目の前には「制度の問題」である前に「心理の問題」が立ちはだかっています。いつか死を迎えることを知っているのに、死について具体的に考えると心が本能的に拒否してしまう。頭のどこかでは「必要な議論だ」と理解していても、感情のレベルでは「怖い、触れたくない」と拒絶してしまいます。家族の終末期を想像すると不安で話題を避けたくなる。そんな経験は誰にでもあるでしょう。
歯医者の予約ですら先送りしてしまう私にとって、死を考えることは辛く、まだ先のことと無意識に考えて当然です。
E・ベッカーは、「もし人が自分の死の意味を完全に理解してしまうと、身動きが取れなくなるほどの不安状態に陥る」と言います。死について考えることはそれほどに苦しい話題なのです。無意識に個人が、そして社会がその話題を抑圧しているのです。「死について考えることは辛い」。この負担を無視して議論をすすめようとしているのが現状です。
物語という解決策
では、どうすればその拒否を和らげられるのか。
私はその一つは物語やアートにあると考えています。物語、絵画、映画や詩は、直接「死」を押しつけるのではなく、象徴やストーリーを通じて私たちに考える余地を与えてくれます。恐怖を直視するのではなく、心の距離をとって眺めることができる―それが物語の力です。映画『おくりびと』が私たちに見せてくれたような力です。
アート、物語、文化、信仰、祈り、儀式、宗教。これらはすべて対象から距離を取る方法です。「ぽっくり信仰」の様にその思いは今の日本にも根付いているものもあります。これらは、よくわからないもの、怖いものを扱う手段であり、時に慎重な姿勢を届けます。
このブログ「思索の森」では知識を積み重ねるだけでなく【感じる】という視点を取り入れています。物語やアートをきっかけに距離を取りながら「死」を考える場をつくりたいと思ったからです。大切だと感じつつ、考えることが怖い、そのような人も拒否せずに考えることができると思っています。

おわりに
ここまで読み進めてくださって改めて感謝します。避けたいテーマにあえて向き合おうとする姿勢が議論を動かす第一歩になるのだと思います。安楽死の議論が進まないのは、「その話が辛いから」至極単純な背景がある。これは見落としがちで十分に配慮がされていません。こんな状況で「事前指示書を書きましょう」と言われて、いったい誰が書くのでしょうか?
もちろん安楽死を支持しない立場も命の価値を重視する視点として尊重します。そのうえで、どちらも論理や制度論だけではなく、様々な物語を通じて「感じながら考える」プロセスが必要なのではないです。今回は『心理的拒否』という一点に絞りました。少し抽象的になってしまいましたが、このブログの思いを含めて考えていただけたら幸いです。次回は別の角度からこの問題をさらに掘り下げてみたいと思います。
あなたは尊厳死について考えるとき辛さを感じることはありますか?
参考:広島文化学園大学大学院看護学研究科2020(尊厳ある生命の問題としての安楽死に関する研究)
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