あなたはぽっくり逝きたいですか?尊厳死をしたいですか?
「長患いせず、眠るように安らかに人生の最期を迎えたい」。この切実な願いは、決して現代特有のものではありません。古くからそうした願いを神仏に託す「ぽっくり信仰」という文化が人々の間に根付いてきました。「ぽっくり信仰」の歴史や背景を紐解きながら、現代の私たちが考える「尊厳死」や社会との議論とどのように関係しているか簡単に解説します。

1. ぽっくり信仰とは ― 苦しまずに逝きたいという祈り
ぽっくり信仰とは、文字通り「ぽっくり」と長く苦しむことなく安らかに死を迎えることを願う民間信仰です。宗派に限らず観音や地蔵菩薩、阿弥陀如来など様々な神仏がその祈りの対象となってきました。
「ころり信仰」や、子の配偶者である「嫁」が介護の中心を担ってきた歴史を背景に「嫁いらず(嫁助、嫁楽)」とも呼ばれています。
江戸時代には存在したこの信仰が広く知られるきっかけとなったのが、1972年に発表された有吉佐和子の小説『恍惚の人』です。作中で描かれた認知症の高齢者を介護する家族の姿は社会に大きな衝撃を与えました。各地で「ぽっくり寺」と呼ばれる寺院を訪れる「ぽっくり寺」巡りという観光ブームにもなりました。
2. なぜ人々は「ぽっくり信仰」に惹きつけられるのか
医学が発達した現代、なぜ人々は非科学的とも言えるこの俗信に、今なお心を寄せるのでしょうか。そこには現代社会を生きる私たちの複雑な心性が映し出されています。
・近代的な「自立」が土俗的な「祈り」を促す
ぽっくり信仰は、一見すると古い時代の土俗的な習俗に見えます。しかし、その内実を深く見つめると極めて現代的な側面が浮かび上がってきます。社会学者・佐々木陽子氏は、ぽっくり信仰を「近代の自立の心性に絡め取られている」と指摘しています。ぽっくり死にたいという願望は単なる「苦痛からの解放」だけを願う利己的な心ではありません。その根底には「家族に迷惑をかけずに逝きたい」という他者を思う利他的な願望もそなえています。
「他者に迷惑をかけたくない」という思いは自立を重んじる近代的な価値観そのものです。効率主義、合理主義、個人主義。そんな考えが社会に溢れていませんか?しかし、老いや病を前に最後は誰もが他者に依存せざるを得なくなります。死を前に自立を貫くことはできません。このどうしようもない「矛盾」を前にした人々が、古くからの「祈り」に救いを求めるのです。迷信だとわかっていても、割り切れない不安の受け皿として祈っている。
『恍惚の人』以降、「寝たきり老人」「ボケ老人」といった言葉が社会に広まりました。これらの言葉は、個人の尊厳を考えず、ただ「無能な老人」というレッテルを貼ってしまいます。ぽっくり信仰に込められた願いは、こうした言葉で括られるような存在、つまり「尊厳をなくした老人像」に対する深い恐怖の裏返しでもあります。
現代には、医学でも不安まで癒せないという事実と、社会が押し付ける矛盾と不安が存在します。つまり「心には心で」「矛盾には祈りで」というとても分かりやすい構造が「ぽっくり信仰」の根源です。
3. 「ぽっくり信仰と尊厳死」― 「祈りと選択」
この古くからの信仰は、現代における「尊厳死」の議論と無関係ではありません。研究者の中には、ぽっくり信仰を一種の「安楽死祈願」として位置づける声もあります。これは医療的な文脈の安楽死とは全く異なりますが、どちらも「苦痛なく尊厳を保ったまま最期を迎えたい」という願いに基づいています。
ぽっくり信仰が人の力では及ばない運命に対する「祈り」であるとすれば、「尊厳死」は自らの意思で人生の最終章を描こうとする新しい「選択」と言えるでしょう。これらは対立するものではありません。時代や文化によって変化する「安らかな最期」をめぐる多様なアプローチと捉えることができます。

4.尊厳死は「祈り」の代わりとなりうるか?
「ぽっくり信仰」は単なる俗信ではなく、人々が古くから抱き続けてきた普遍的な願いを反映した文化です。
では、もし「尊厳死(安楽死)」という選択肢が社会的に確立されたなら私たちは「ぽっくり信仰」に救いを求める必要はなくなるのでしょうか。
確かに、尊厳死は具体的な不安を取り除くかもしれません。しかし、人が抱える死への不安やコントロールできない運命に対する祈りの役割までを代替できるのでしょうか?
・ぽっくり逝きたいですか?尊厳死をしたいですか?
祈りと選択。どちらの形であれ、人が「よく生き、よく死にたい」と願う心に変わりはありません。そして、どちらも社会との繋がりから生まれるものです。社会に迷惑をかけまいとする心、老人像から不安を煽る社会、そんな私たちに新しい選択肢を提供する社会。どれも同じ社会です。社会として出来ることを考えることも必要だと感じます。
こう聞かれるとどうでしょうか?
「ぽっくり逝く」どこか優しく感じるこの言葉。私には近所に出かける様な、ちょっとユーモラスにも感じます。根拠も理由もないのになぜか少し安心する言葉です。これは神仏にゆだねることで、死を「不吉」なものから安らかなものに祈りで昇華させる文化的な仕組みだと感じます。「死の拒絶」が指摘する「死の否定」を映します。死を直視せず文化的祈りで処理しています。「尊厳死」という言葉にはこの力はありません。「厳」の文字。むしろ現代的自立を促す厳しさや冷たさを含んでいるようにさえ感じます。
「祈り」としてのぽっくり信仰と「選択」としての尊厳死はそれぞれ異なる次元で人の心に寄り添い、共存することが必要です。矛盾するようなこの考えも私たちの心の中では共存します。

あなたは「ぽっくり逝きたい」と思いますか?
あなたの祈りは「誰のため」ですか?
あなたは「ぽっくりと尊厳」どちらに安らぎを見出すでしょうか?
この記事を通じて、あなた自身にとっての「安らかな心」とは何かを考えるきっかけになれば幸いです。
参考
- 有吉佐和子『恍惚の人』新潮社, 1972年.
- 佐々木陽子『老いと死をめぐる現代の習俗』弘文堂, 2012年.
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